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HN:
アゲ太
発足:
1999/11/27
事業:
障害のある青少年のためのデイ銭湯
趣味:
施浴
自己紹介:
デイ銭湯のボランティアグループです
京都市東山区の大黒湯にて
午前中の貸切銭湯で障害児者の入浴介助をしています
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2017/05/11 (Thu)
白隠禅師法要の最中の妙心寺に明智風呂を見に行きました。
明智風呂とは、太嶺院密宗が光秀の菩提を弔うために創建した浴室、本能寺の変の5年後であり、当初は小規模なものであったが、江戸時代になり、光秀の重臣の娘であり、家光の乳母となった春日局が開浴を知らせるの鐘を建立、春日の局の死後の1656年、光秀縁故の寄進により現存する浴室に建て替えられた。浴室玄関には寄進者の位牌が並ぶ。
開浴は光秀命日の13日、月1回であったが、その後塔頭が増えたこともあり、4と9の付く日の開浴となり、昭和2年まで使われていたという。施浴は、薪代を寄進により行われ、薪代により追善供養する故人の命日や祥月命日に行われていたようである。
井戸は屋外。石碑により屋内の水槽に給水され、水槽の向かいに鉄湯釜が2基並ぶ。室の下にも1基あり、その鉄湯釜で室に蒸気を満たす。竃はどれも石製である。並んだ2基うち1基は室下の鉄湯釜の給湯用、もう1基は上がり湯用として使われていたようだ。入浴時間は長い線香が燃え尽きるまでの20分程度、室には浴衣を着て入り、1人が使える湯の量は湯桶に3杯と決められていた。
見学者が他にいなかったことも、11時を過ぎていたのに玄関の鍵が内側からかかったままで、井戸のある庭から入ることになったのも幸いでした。
明智風呂を見学後、法堂で執り行われている法要を見学、終了後、花園大学博物館で開催中の白隠展に足を伸ばしました。それにしても、湯水を使う浴室が大きな改修もなく270年使われ続け、その後90年経っているとは思えない保存状態には驚きました。
明智風呂とは、太嶺院密宗が光秀の菩提を弔うために創建した浴室、本能寺の変の5年後であり、当初は小規模なものであったが、江戸時代になり、光秀の重臣の娘であり、家光の乳母となった春日局が開浴を知らせるの鐘を建立、春日の局の死後の1656年、光秀縁故の寄進により現存する浴室に建て替えられた。浴室玄関には寄進者の位牌が並ぶ。
開浴は光秀命日の13日、月1回であったが、その後塔頭が増えたこともあり、4と9の付く日の開浴となり、昭和2年まで使われていたという。施浴は、薪代を寄進により行われ、薪代により追善供養する故人の命日や祥月命日に行われていたようである。
井戸は屋外。石碑により屋内の水槽に給水され、水槽の向かいに鉄湯釜が2基並ぶ。室の下にも1基あり、その鉄湯釜で室に蒸気を満たす。竃はどれも石製である。並んだ2基うち1基は室下の鉄湯釜の給湯用、もう1基は上がり湯用として使われていたようだ。入浴時間は長い線香が燃え尽きるまでの20分程度、室には浴衣を着て入り、1人が使える湯の量は湯桶に3杯と決められていた。
見学者が他にいなかったことも、11時を過ぎていたのに玄関の鍵が内側からかかったままで、井戸のある庭から入ることになったのも幸いでした。
明智風呂を見学後、法堂で執り行われている法要を見学、終了後、花園大学博物館で開催中の白隠展に足を伸ばしました。それにしても、湯水を使う浴室が大きな改修もなく270年使われ続け、その後90年経っているとは思えない保存状態には驚きました。
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